Ambivalent

この一週間は気を失っており(比喩)、すべてのSNSを更新していませんでした。

久しぶりに意識を取り戻し、朝から近所の喫茶店で1年以上積読していたシューマッハのスモール・イズ・ビューティフルを読んでいます。

思想の勉強やこういう読書は非常に重要だと思うのですが、大学院生のときはやはり修論に関連があったり、引用することになりそうな本から読むので、手が回っていませんでした。「そういうところがだめなんだ」と喝破する1本で、もっと思想や観念について勉強をしなくちゃ、と反省させられています。

本書では、まず現代的な経済学は西洋的な価値観を前提としており、それは自然を制御可能な無限の所得(資本ではなく)と捉えている点で誤謬があり、経済水準の向上が貧困をなくし平和と生活の向上を両立するという幻想が誤りだったことを指摘しています。人間も自然の一部であることを認識し、足るを知り、経済中心ではなく人間中心であるべきという主張が「仏教経済学」というフレーズで端的に表現されています。後半では、中間技術等の施策を提案し、所有権や国有企業、社会主義のあり方(やなぜうまくいかなかったか)を論考しています。

日本においては大学の事例がわかりやすいですが、最近は公共事業であっても様々なものが市場経済に晒され、経済性が要求されるようになりつつあります。シューマッハは市場を「個人主義と無責任が制度化されたもの」と定義し、買い手も売り手も自分にしか責任を負わない極めて局所的な営みだと指摘します。経済学は経済的かどうかを判断する基準ですが、極めて部分的であるため、たとえば国営企業の財務基準でさえも、それを達成することによる他の経済部門への打撃は度外視される点に問題があるといいます。その上で、「社会が豊かになればなるほど、価値はあってもすぐには採算に乗らないことをするのが難しくなる」という指摘は、現代日本でもあらゆることを経済学の前提を疑わず市場原理に委ねようとする為政者の台頭2や、大学の苦境、不採算施設・事業からの公共事業の撤退に顕れているといえるでしょう。さらにシューマッハは以下のように述べます。

今日の経済学の知恵では貧しい人たちをいっこうに助けられないというのはじつに奇妙な現象である。
現に豊かな人をますます富ませ、権力のある人の権力を強める結果をもたらすような政策しかとれないことがほぼ例外なくはっきりしている。また、産業開発というものが採算的に成り立つのは、それが農村ではなく首都か、大都会にできるだけ近接した場所で行われる場合に限る、ということもはっきりしている。(中略)今日の経済学による政策というものは、開発の真の受益者であるはずの貧しい人たちを素通りしてしまう。巨大主義とオートメーションの経済学は、十九世紀の環境や思考の「遺物」であって、今日の問題を何一つ解決する力がない。p96

工学をバックグラウンドとする自分は特に、思想なく専門化していく過程を辿った記憶があり、技術者倫理という科目でさえも進歩主義的な価値観を相対化することはしなかったように思います。すなわち、技術開発やオートメーションが経済水準を向上し、それが人々の役に立つ、という前提を疑わなかったということです。

もちろん元々の性分として違和感を感じていたのだろうし、色々なきっかけがあるのでしょうが、それを感じ始めたのは専攻科で修了とは関係のない科目として開講されていて、受講者が二人しかいなかった「中国古典学」の受講だったりします。この経験もあり、僕自身は東洋思想にやや傾倒しているように思うのですが、これが実践を伴わない単なるニヒリズムのような態度で留まらず、思想・主張であるためには、経済学の視点が必要でした。この点で絶対に読むべき本だと確信していたのですが、実際問題、「脱成長」は実現されておらず、人々は無限に向かって進むことをやめていない中で、実現性に疑念がある理想論を読んだところで僕自身がこの大きな渦から逃れられるわけではないこともわかっていました。ただ、この渦の中にどう埋もれるかを考えることからも逃れられるわけではないよ、と最近聴くニューロティカに背中を押されたのかもしれません。

冒頭に大学院生のときは読めなかったと書いてしまいましたが、読み終えてみるとこれは大学院生のときにこそ読むべき本だったと思います。「人間中心の経済学」という副題は、文化人類学の現代応用のキーワードであるHCD(Human Centered Design)と符合しますし、「経済水準の向上は文化を維持しない」3というシューマッハの主張は、様々な人々の振る舞いや価値観を相対化し、立ち止まって「人間中心社会」、Society5.0を考えるにあたって文化人類学の視座・手法の存在意義を示唆するもののように思います。

シューマッハは、「いずれの専門にも、根底には形而上学と倫理がある」といいます。こういう読書感想文で休日を潰すことにはなんの生産性も無いですし、わざわざ自身が立脚している前提を疑うことはParadoxですらあると思います。

読む・考える・書くプロセスは楽しいのですが、平日にはほとんどできておらず、冒頭に書いたような気絶という言葉を使いたくなるほどです。しかし、労働に従事することによって本を買って喫茶店で読むというような贅沢に預かりながら、休日はそれを相対化しようと試みているわけで、この営みは(経済学的な前提のもとでは)まったく生産的でなく、しかしだからこそ立ち止まって考えることができるわけです。Ambivalent。

悩みや迷いは続きますが、経営学の言葉で「両利きの経営」という言葉があるように、一つの価値観に固執することは危険でもあります。矛盾を内包した営みであっても、そしてそれが一見非合理的でも、リスクマネジメントの観点から必要かもしれません。経済学を相対化することを正当化するために経済学の用語を使わなければならないほど、私たちはこれを自明化しているのでしょう。Ambivalent。

  1. どんな専門の根底にも、「形而上学と倫理」がなければならない。 ↩︎
  2. 奇しくも今日、「なんで学者ってこうも偉そうなんや」という元政治家の発言が話題となっています。なんの役に立つかもわからん研究、という言葉の背景には、やはり「役に立つ研究」があり、それはおそらく経済規模拡大や競争力向上にとって、という話なのだと思われます。僕は同意できないのですが、実際問題、彼のその思想は民主主義的に支持されていることは否めないと思います。 ↩︎
  3. 経済的に豊かになった国では人口は減り都市化が進み、維持できなくなる地域とその文化があると主張。これは人類にとって、「経済的に」というカッコを外したときに本当に豊かと言えるのでしょうか。 ↩︎

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