経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか

老荘思想、シューマッハのスモール・イズ・ビューティフル、辻信一のスロー・イズ・ビューティフルと、脱成長思想を少しずつ読んでいるヒラマサです。狩舞麻礼の名作「ボーダー」の名言といえば「無為こそ過激」でした。

分業は仕事を苦行に変え、生活の手触りが薄れつつあるという悩みは産業革命以降、解消されるどころか加速主義的な世界の中でますます深刻化しています。個人化と巨大化が同時に進み、多くの人が無力感を感じている今はディストピアの入り口に立っているようです。作業ではなく仕事を、そして他者に対する影響を求める社会的存在である人間の本性を洞察した結果、アンドロイドは電気仕掛けではない羊を夢見るのかもしれません。

さて、理想は理想として、僕個人の生活態度としては貨幣経済も規格化された工業製品や食事も好きだし、株式投資を継続しているほどには経済成長を見積もっています。人間の欲望と発想が試される資本主義というゲームも決して嫌いではなく、ビジネスモデルやマーケティングを学ぶことは好きです。不必要に欲望がハックされ、自然を無尽蔵に消費し、豊かであるが幸福でない人々が量産されている現実には批判的ですが、それでもWin-Winを作り出している側面も明らかにあります。しばらく開発や経済成長が止まる気配はありません。今は個人がどう付き合うか、どう捉えるかで処世するかを考えるフェーズなのだと思います。

アウトプットを前提に読むことや、アウトプットの過程で整理しようとすることはかなり意味があると思っています。やみくもに読んでも思想は行動として表出され、それだけで本を読む価値はあるのですが、僕はやはり説明できるようになりたいし、どんな文脈に基づいているのかを自覚的でありたいのです。かなり拙いのですが、メモを残します。

本書は辻信一氏のスロー・イズ・ビューティフルで引用されていたことにより購入して読了したのですが、わかりやすく刺激的でした。「本書には新しいことは書いていない」という宣言は、これまでの思想の系譜をある程度網羅的にまとめたよ、という意味なのかもしれません。入門にぴったりですね。経済や経済発展はイデオロギーとなっており、絶対化され、この論理が第三世界にも暴力的に導入されることにより、貧富の格差は拡大し、文化や言語や自然が破壊されていることを指摘しています。

著者は、経済発展は二十世紀の一番深いところまで根を下ろしたイデオロギーだと指摘します。

経済発展がイデオロギーとして現れた瞬間は、 アメリカの大統領選挙に勝ったトルーマンの1949年の就任演説だといわれています。「未開発の国々に対して技術的、経済的援助を行い、そして投資をして発展させる」というのです。「未開発の国々」や「近代化」という用語が当たり前に使われるようになったのはこの頃からで、発展「させる」という風に他動詞的に使われていることにも特徴があるといいます。

発展は本来自動詞で、さなぎが蝶になったり、つぼみが花開いたりするようなニュアンスなのですが、他動詞として使うと、啓蒙的な印象になります。ここでいう発展はもちろん産業化です。

「搾取」という言葉とはだいぶ違うことを指している。つまり、世界中のあらゆる文化のなかには、産業革命を起こして産業国になる内在的な可能性がある、そういう言い方なのです。 それにたくさんの人が説得されたわけです。実際にやっていることは、植民地時代とそれほど変わらないにもかかわらず。外から資本が入って、自然を壊し、伝統的な文化を壊し、搾取する。それを「 発展」と呼べば、それはその社会の、自然で当たり前な、決定された過程であるというように思えてくる。内政干渉ではなくて発展、搾取ではなくて発展、暴力的な変化ではなくて発展。ある文化、ある人々が内在的に持っていた能力を解放するようなイメージになる。

自然に対する暴力的な行為を見ても、あるいは、文化、文明に対する暴力的な行為を見ても、その暴力性が見えなくなる。たとえば昔から伝わってきた一つの文化が目の前で破壊され、昔から伝わってきた人の技術がなくなる、音楽がなくなる、言語がなくなる。それを見て、「発展」と呼ぶ。そうすれば「そうか、発展なのか」と諦めるか、「悲しいけれども仕方がない、それは必然的なことだ」というふうに頭を切り換える。このイデオロギーにはそういう力がある。

望まれていないのにも関わらず、西欧的経済制度や産業を持ち込むこと自体が植民地主義的です。

結果として、イヴァン・イリイチのいう「貧困の近代化」が生じたといいます。もともと経済発展の大義名分は、近代化すれば貧困はなくなる、すなわちパイが大きくなればピースも大きくなるというものでした。しかし、近代化によって貧富の差は「合理化」されたといいます。

何か新しい技術ができると最初は金持ちだけが買う。それがだんだん、あればいい、ではなく、なければ困る、というふうになってくる。買えない人たちは、それを買うお金がないから貧乏、ということになる。この貧困の特徴は、経済発展や技術発展によって解消されるのではなく、経済発展と技術発展によって再生産されるところにあります。これは技術発展によってたえず作り続けられる貧困なのです。

そして要因は技術発展だけでなく、政治にもあります。例としてロサンゼルスの車社会があげられます。自動車販売会社が鉄道会社を買い取り、道路を整備して鉄道網を弱体化した。こうして電車移動が困難となり、車社会となった。日本でも道路標識や高速道路の整備など、車を優遇する社会の整備が行われています。このように社会の構成の前提を変えて必要なものが生まれています。パソコンだってそうで、私が必要なのではなく、なければ社会に参加しにくくなっています。金持ちが買い、あれば必要なものが徐々になければ不便になり、買えない人は貧しいとされる。技術・経済発展によって絶えず作られる貧困。技術・経済発展によって貧困も再生産される。自給自足的な貧困をなくし、誰もが労働者と消費者となり、このサイクルに巻き込まれる。つまり、貧困は経済的に合理化された。著者は、これが成長なのかといいたいわけです。

第三世界においては、自然を破壊して自給自足を不可能にしたり、貨幣による税金の徴収によって労働を不可欠にしたり、という暴力によって経済の論理が導入されています。これにより文化や自然がなくなることは非常に暴力的なのですが、経済という強力なイデオロギーによって納得されてしまっているといいます。

さらには、第三世界の人たちは自ら望んで発展に参加したことにされています。これでは植民地制度の頃のような自覚的な搾取から無自覚的な搾取への移行だというわけです。自然を壊して自給自足を断つことや、税金制度によって貨幣経済への参加を強制することも奴隷制であると著者はいいます。

人間を豊か・幸福にするために経済があるはずが、経済のために人間があるかのようにとらえられている点に問題があります。実際、第三世界を豊かにするために外部から発展を促しているのではなく、経済的な利益のために第三世界の国々があり、経済的な利益のために開発していることは否めません。

翻って私たちの生活を見たとき、もちろん同様の論理にとらわれています。

産業革命以降、労働者はずっと抗ってきましたが、産業革命以前の記憶はなくなってしまい、生活の中心に労働が据えられることに疑いを持つことや、変化のために行動することは難しくなってしまいました。民主主義国家に住む国民の多くが長時間労働を望んでいないのにも拘わらず、です。

その原因として、国家の三側面:政治・軍事・経済の問題を挙げます。

言わずもがな、軍事は本質的に独裁的な体制です。そして、経済の重要なプレイヤーである会社は、ぐ自組織を模倣しています。現在は経済の論理が支配的で、政治体制が民主的であっても、経済の論理から抜け出せないというのです。

であれば政治的な変革はできないのかというと、著者はアリストテレスを引用してこう述べます。

民主主義の必要条件は社会に余暇、自由時間があるということです。余暇がなければ、民主主義は成り立たないと。 人が集まって議論したり、話し合ったり、政治に参加するには時間がかかる。そういう暇がなければ、政治はできないのです。政治以外にも、人は余暇で文化を作ったり、芸術を作ったり、哲学をしたりする、とアリストテレスは言いました。けれども政治的に言うと、そういう勤務時間以外の時間があって初めて、人が集まり、自由な 公 の領域を作ることができる、そういう考え方だった。

アリストテレスは、「だから奴隷制が必要である」と続きます。つまり、奴隷階級によって市民階級の余暇を作り出し、政治に参加する余裕を作り出すということです。

もちろん私たちは「それは真に民主的ではない」と批判します。奴隷制は許せません。しかし、政治に参加するような余暇のない人たちが奴隷であるとするなら、私たちはどうでしょうか。

経済のイデオロギーは、文化人類学の黎明期にE.B.タイラーが唱えた文化進化論と非常に類似した考え方だと感じました。今は文化進化論は否定され、文化相対主義は文化人類学の旗印のようになっており、誰もが「多様性」と口にする時代です。しかし、先進国と発展途上国という分け方はキリスト教徒と異教徒、という分類と変わらないあまりにも乱暴なもので、経済成長を絶対的な価値としている証左なのですが、これは受け入れられているように見えます。

発展の限界の根拠に地球環境の限界があるため、SDGsと言われていますが、著者はDevelopment自体をやめたらどうだと言っています。地球環境への影響を無視できるようになったとしても、大きなパイは小さなパイから搾取をやめない。豊かな国は貧しい国から資源を取り、貧しい国を消費者とすることで成長しているのです。経済絶対主義をやめようというわけです。

著者はコロンブスが発見した新世界の寓話を持ち出します。

コロンブスが発見したカリブ海の新世界に住んでいたタイノ族は、栽培と漁業で生活をしており、労働にかける時間は短く、残りは芸術活動等に費やしていました。地上の楽園のごとく感じたそうです。

コロンブスは帰国後、イサベラ女王の命を受けてここに奴隷制を作りました。しかし、タイノ族は病気で死ぬ、うつ病で死ぬ、座り込んで死ぬまで働かない。とにかく死ぬ。自分の子どもを奴隷にすることは考えられないから子供も作らない。こうして百年でタイノ族は全滅しました。その後、労働力を補うためアフリカから奴隷が連れてこられ、同じことが繰り返されました。

第三世界への搾取構造を問題視していた著者が、急にこちらを向いて出生率や精神疾患が増加している先進諸国だって決して豊かになっていないと突き付けてくるわけです。

さて、我々はどのように生きるのでしょうか。もちろんこの思想を全面的に採用し、経済から脱却して生きていこうとは僕は思っていないわけです。

少しずつですが読書をやめず、語る言葉を増やしたいと思います。

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