23歳の夏休み

1-2期の授業が終了。1-1期より時間の余裕はできつつも、内容の難しさとか他のやるべきこととかで変わらず忙しい。コンピュータネットワークの授業では確率を扱い、1年以上ぶりに積分とかをする。

自分が歳を取っているということを忘れるほど、不安定で自由な学生生活は変わらない。日々気ままに生きているけど、進路は常に模索中だし、インターンシップはいくつも落とされている。自分では退学しても職歴があっても変わらないつもりだけど、見え方は違うのだろうか。それを言い訳にするつもりはないけど、それがなければ自分の評価は変わるのだろうか。考えても仕方ないから、たまにふと思うだけ。

「可能性は無限大」の季節はとうにすぎ、根拠のある可能性しか売り物にならなくなった。こうなることはわかっていたから、資格をたくさん取ってコンペに出た。誰かが求める「可能性」に自分が適合しうる根拠をその都度引っぱり出して作文するのは、これまであるだけで役に立たなかった資格や実績を活かしているようで楽しい。ただ、書類が通らない限りこの一連の作業は自己満足でしかない。もっと他のアピールポイントを磨かなければならなかったのかも、とも思うけど、それでもこれが自分にできるベストだったとわかってる。これまでやってきたことの方向性と量の”正しさ”を清算する時期なのだとすれば、当時の自分に失礼のないように胸だけは張っている。

然るべきタイミングで然るべき出来事が起きて、大人は堂々と大人になっているのだと思っていた。年齢段階や性別に設定されたロールを社会に押し付けられない今、「大人として」みたいな言葉を誰が真に受けるのだろう。今、誰が大人になれるのだろう。

最近、僕の数少ない友達の多くから急に結婚や交際の知らせが届くようになり、中には親になった人もいる。気軽に連絡できる友達が少しずつ減り、いつかの自分がはっきり大人だとみなしていた「20代半ば」にいることを思い出した。

みんなは堂々と大人になっているように見える。然るべきタイミングで然るべき出来事は偶然起こるのではなく、彼らは人生のあらゆる選択肢で大人が取るべき行動を取り、なるべくして大人になった。結婚とか就職だけではなくて、あらゆる選択を。僕が今から始めても何も間に合わないのかもしれない。だから心の底から「おめでとう」が出てくる。

昨日寄った書店で「選んだ孤独はよい孤独」(山内マリコ)と目が合って、読んだ。

短編と詩で、表面を取り繕う人間のいさかいやすれ違いを描く。孤独を賛美するわけではなく、人間関係を嫌うものでもなく、なぜこの表題が付いたのか不思議な一冊だった。でも、たぶん人への恐怖と怯えと不信が通底しているのだと思う。読みながら、絶対に共感してくれそうな友人が頭に浮かんで、薦めて一緒に感想を言い合いたかった。でもその人は最近こういうのを脱却している/しようとしているから、足かせになると思ってやめた。

20代半ばを過ぎればみんな友人関係が縮小していく。その過程で周りだけでなく自分も大人になっていく。永続しないなら「フェードアウトするか取り残されるか」しかないんじゃないだろうか。

この夏が終われば僕は24歳になる。

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