
「キャリアのドアノブはこちら側についていない。」
開かないドアをノックし続ける日々に、この言葉を悟る。
能力や意欲や、その都度自分の持てるすべてを全力で伝えているつもりだから、これ以上僕の努力ではどうしようもないのかもしれない。マッチングの問題だということはわかっている。自分の実力が適性に評価されていないと言いたいわけではない。だから書類を出すたびに、適性検査を受けるたびに、面接を受けるたびに、僕は祈る。就職活動は僕にとって「勝ち取る」だけのものでは無くなってきた。この不安や焦りを鎮めるのは努力ではなく、祈りなのだと思うようになってきた。
何を食べても何を飲んでも、僕の日々の糧は借金でできている。「なるようになるさ」とはとても言えない。祈る。
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昨日は3週間ぶりに家庭教師先へ。ここしばらく面接その他でバタバタしていて、お伺いできていなかった。
これまで家庭教師は10件近く行ってきたが、「魚をあげるより魚の釣り方」なので、勉強習慣がない方には勉強そのものというよりも、僕がいない時間の勉強にコミットするように意識している。
今回もあれを試しては失敗、これを試しては失敗、と色々と苦労はしていたが、僕がいないこの3週間ですっかり勉強の習慣がついたようで、ペースは順調。問題集の解説や学校の先生といったリソースも活用しながら、どうやら自走できているみたい。「こうなってほしい」とは思いつつもいざ出来てしまうとなんだか寂しいもので、次はペース確認の意味でまた3週間後に訪れることになった。
そんなわけで昨日は任されている英語の指導はほとんどしなかったのだが、生徒の色々な質問に応えた。ピュアな質問につい熱くなり、自分の学習経験を総動員し、ゲーム理論やファン・へネップの通過儀礼の理論も踏まえて、自分なりに中学生の悩みや疑問に答える。彼のもつ不満や不思議は、僕が中学生の頃に感じていたそれと大体同じだと思う。いつの間にか自分が、自分なりの裏付けを持って即興的に答えるようになっていて驚いた。もちろんまだまだなのだが、こういうアウトプットの機会があるとがぜん勉強もやる気が出てくる。
指導していると言いながら、自分もエネルギーをもらっているし、彼に投げかける言葉は自分にも刺さる。次彼に会う時に、胸を張れるような3週間を自分も送ろうと誓って帰路につく。
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僕が彼の年齢の頃は、あまり祈らなかった気がする。自分の努力でどうにでもなると思っていた。祈るのは弱さだと断罪したかもしれない。
でも今はそう思わない。無力を認め、諦念も包含しながら、穏やかに祈ることも、しなやかさなのだ信じている。
頂いたユーグレナを飲みながら。







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