
ここのところtomorrow、そのままの君でいてをずっとリピートしていた。
なぜ岡本真夜にこんなにも救われるのかといえば、それは「全肯定」に尽きると思う。実は他の曲はほとんど聴いたことがないのだが、この2曲を永遠に聴いていたい。僕が孤独に耐えられるのは岡本真夜とZARDのおかげだと思う。
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20代中盤という年代がそうさせるのか、時代がそうさせるのかはわからないが、人の悩みや悲しみに触れる機会が増えてきた。僕自身も色々な悩みを、たくさんの人に聞いてもらい、励ましてもらって生きているので、自分だって誰かにとってそうでありたいと思う。
具体的に力になれることであればできる範囲でやるし、求められているのであればアドバイスをするのだが、求められているのはそういうことばかりではない。その時に自分がどういうスタンスでいる(べき)かというのは悩みの種だったのだが、この旅で「岡本真夜的であること」と結論した。
僕は自分の言葉に比較的責任感を持っているつもりなので、「がんばれ」なんて命令形を人にはなかなか言えないし、自分の価値観を絶対視していないので、「〜した方がいいよ」とも言えない。振り返ると選択肢の提示と、リスクとリターンを天秤にかけた判断の妥当性と、リスクヘッジの提案をすることが多い気がするので、結果として情緒を無視して背中を押すことも撫でることもせず、「悩み」に関してはコミットしていなかったことに気づいた。求められていない「判断と提案」ほど鬱陶しいものもない気がして、今まで僕と話したことのある人にも申し訳なくなってきた。ごめん。
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「明日は来るよ 君のために」
こんなポジティブな言葉を心に届けてくれるのは岡本真夜だけだと思う。綺麗事を綺麗なまま信じようという気にさせてくれる。どんなに取り繕っても彼女には見透かされている気がするし、彼女の歌声を聴いていると、せめてその間だけでも素直でいたいと思う。
僕が彼女に救われるのは、彼女が僕を救おうとしていないからだと思う。彼女の言葉が無責任に聞こえないのも同じ理由だと思う。僕には「善い人」としか表現できない彼女の前で、僕は自分を恥じることしかできない。
僕は自分が彼女と同じ言葉を同じように伝えられる人間ではないことを知っている。俯瞰したり、斜めから見たりと分析するし、色々なものに立ち向かおうとしてしまう。そんな僕の態度や言動を知っている人が「明日は君のために来る」なんて言っても、白々しく思われるかもしれない。
それでも、こういう論理をすべて超越するのが「岡本真夜的」なのだと思う。僕は岡本真夜に「信念」を見ている。
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誤解されたくないのは、誰かの話を聞くことが目的ではなく、そうたり得る人になりたいということ。そして、その理想形は「岡本真夜的」であることと結論した。
道のりは長い。そして、無尽蔵にそんな振る舞いができるとも思っていない。事実いまの自分は経済的にも精神的にも余裕がなく、自分のことで一杯いっぱいで、誰かに手を差し伸べられる状態ではない。
でも、そんな僕にも彼女は言う。
「自信がなくなったり、疲れた時は いつでもいいよ 帰っておいで」
「君も頑張っているから負けないよ」
もうすぐ寮に帰り着く。日常に溶け込んでも、今日の気持ちを忘れないように。








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